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something left between words and truth
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居場所がなかった〜♪
女三界に家なし、とはよく言ったものです。
子供のうちは親に従い、嫁しては夫や義理親に従い、老いては子に従え、というのが女の生き方だとされていた時代の言葉ですが。

引っ越して、ホームシックになりつつ大阪に帰ってきて、自分自身の家および衣服や家具、布団などはまだ残してあるものの、ガスや水道など全部止めていったので、そんなちょっとの間、また開けるというのも面倒だし、実家に泊まってました。まー、実家だから良く知っていて、あまり気兼ねもしなくていいわけですが、そこには自分の部屋というものがないので、なんとなく落ち着かない。というか、激しく落ち着かない。近所の甥っ子たちがゲーム(Wii)したさに毎日のようにやって来るし、来たらまたこれがスーパーやかましいし・・・小学三年生と二年生なんですけどねえ。赤ちゃんみたいに泣くことはないけれど、子供特有の甲高い声で、傍若無人にはしゃぎまわり、果ては兄弟げんかだの何だのと、普段、私の送っている静かな日々とはまるで違うものですから、一週間もすると疲れてしまい・・・なにせ、逃げる場所がないので。近くの図書館へでも避難していたらよかったかも。実際、そうしたこともあります。

居場所がない。

そう思いました。いくら血を分けた親子といっても、いい年をして、ひとりで暮らした経験もあって・・・となると、もう一緒に住むのは難しいですね。大人同士なのに、親子という微妙な上下関係みたいなのがあって、それでもって、どちらも「親子だから」という甘えで遠慮しないとなると、いずれお互いにウザーって思うときがきますよ。きょうだいだって、結婚してしまったら、配偶者という存在が大きいですもんね。

故郷は遠きにありて思うもの

ということですか。中学の国語の教科書で、魯迅の「故郷」を読んだとき、なにか言いようもなくせつない、複雑な気持ちがしたものですが、今ならそのモヤモヤとしたものが、リアリティをもった実体のように感じられます。
昔とは違うんだから。
そう、みんな年を重ねているんだから。
美しいものは思い出箱のなかに置き去りにされていくばかりだと、嘆いたって何も変わらないと醒めるほどには子供ではない、私はもう。誰かのテリトリーのなかに自分の居場所がないのなら、自分が今いるところが自分の居場所。そうあるべきだし、そうでないなら、そうしていくべきだろうと。ま、そんなことを思いながら大阪から戻ってきました。決してここに根を下ろそうとか、終の住処とは思わないけれど、少なくとも今現在は、ここで自分のやれることを探すしかない。
なんかもうわかってたこと(だけど目をそらしたかったこと)を突きつけられましたね。

ところでガラリと話変わって、中国の李鵬が90年代半ばオーストラリアに行ったとき会談して曰く、「日本という国は、2,30年後にはなくなっているだろう」と。いや、最近ネットで知ったんですけどね。仮にそれが20年後だとしたら、もうあと数年後で「日本は滅びる」ことに。うん、普通ならこんなの笑い飛ばしてると思うんですが、今ちょっと怖いんですよ。
まあ、私はとりあえず仕事になるかどうかわからないけれど、日常会話程度なら英語と中国語はなんとか。という状態。外貨預金もとりあえずはしている。日本という泥舟が沈みかけたとき、逃げるとしたらどこ?中国?アメリカ?やっぱアメリカですよね。英語、つらいけど。その他の部分であまりにも違いすぎる。
うちの相方なんて、「そこまで危機感もってんの?」と言うけれど、私にはもう、そのうち日本人として日本に暮らすのが、どんどん不愉快で生きにくいものになってくるんじゃないか、という感じが漠然とですがありますよ。このままいけば、李鵬の予言が成就するんじゃないか、みたいな。それでなくても、能力さえあれば、日本にいて無駄に低レベルな生活に落とし込まれたまま死ぬ必要ないんじゃないか、と。

女のほうが、逃げ足は速いんですね、きっと。だめなものにはさっさと見切りをつけて、少しでも居心地のいいところへ移動する。だって、女三界に家なし、といわれるのなら、なんでひとつところに固執しなきゃいけないんでしょうか。開き直って、自分自身が家だ、くらいに思っていないと、女の人生、全うしがたし、ですよ。

日本は遠きにありて思うもの

たとえばそんなふうにため息をつく人たちが、これからどんどん増えても、ぜんぜん不思議じゃないと思います。
ハムスターに勝てない!
最近、うちの甥っ子(小学三年生)が、将棋を教えてもらって、うちの父とジジ孫対戦しています。まだまだ始めたばかりですが、子供の脳の吸収力はすごいもので、日に日に上手くなっていってるみたいです。父がどれくらい強いのか知りませんが、若い頃からなんとなくやっているし、一時はネット将棋などもしていたようです。当分は余裕がありますが、いつか甥っ子に負ける日が来るのかも。

私は将棋なんかぜんぜん知りませんでしたが、甥っ子がやっているので、駒の動きとか超基本的なルールなどを覚えました。で。。。。
みなさん、コンピューター将棋ってありますよね?
あれのメジャーなところで初心者向きの「ハム将棋」に挑戦してみました。ハムスターが将棋の相手をしてくれるソフトです。はじめはハムスターにハンデをつけてもらって、「ハム裸玉」「ハム十枚落ち」をやって勝ちました。しかし!「ハム八枚落ち」から勝てません。つまり、自分は全部の駒を持ち、ハムは歩と飛車角しかない状態なのに、勝てない。三回やって三回とも勝てなかったので、ふて腐れてやめました。だって、ハムが次々に私の駒を取って自分の駒にして行くんですもん。歩はいつのまにか「と金」に成り上がるし、イヤーン状態撃沈
まー、それで思いましたね。

こういうゲームは腹黒い人間でないと無理なのだと。私には向いてませんね。

真面目な話、やはりいくつかパターンというものを記憶しておかないといけないようです。もー、そんなメンドクサイことしたくなーい!
甥っ子が「なー、おばちゃん、将棋しよう〜」と擦り寄ってきても、無視することにします。断固!だって、子供って人が弱みを見せるとすぐつけあがるんですもん。
べつに、ちょっと将棋ができるからって、先が読めるとか策士だとか頭がいいとか、そんなこと、思ったりしないんだから!

しかし、世の中にはいろんなひとがいるもので、YouTubeなんかで見てみると、すごい高速でハムスターに勝ってる人たちもたくさんいます。しかもハンデあげて・・・すご。

これとか、なんで、なんで?ハム君が手加減してるようにしか見えない・・・私にはあんなに情け容赦ないのに。。。
もうどうにも戻れない(ICR-PS501RM)
いやー、新しいヘッドフォン(DENON AH-1000)を買って思ったんですが、なんか、それまでよりいいものに馴染んでしまったら、もう後戻りできませんねー。オーディオ用語(?)で、エイジングという言葉があるそうですが、それは、ヘッドフォンなど買うと、音楽なりピンクノイズなりをニ、三日かけておくと、ヘッドフォンがこなれて(?)より聴きやすい音になる、というんですが、私はこんな工業製品にそんなバカなと思っていて、エイジングされるのは自分の耳のほうだろ、と。まー、実感としても、昔のPanasonic君と聞き比べてみると、もはやAH-1000のほうが、はるかにクリアに聴こえるんだから、それだけ耳が慣れたんでしょう。買った当初は「クリアすぎる」、と思っていましたが、今ではそんなことないですし。

ところで、前から新しいicレコーダーが欲しかったんですが、ついに手に入れました。以前から操作性や音質に定評のある三洋の人気機種ICR-PS501RM。

前から持ってたのはICR-B001Mでした。似てるでしょ。これも、いまだに根強い人気なんですよ。

どこが違うって、ステレオでPCM録音できるんです。会議や音楽などシーンごとの簡単設定もついてて、それを自分でカスタマイズすることも可能。内臓メモリは2Gですが、microSDが使えます。USBで直接パソコンにつなげるし。今使っているものの上位機種なので、操作の仕方はなんとなくわかるし。MP3で録ることももちろんできるけれど、普通にWAVで録ると音質すごくいいです。んー、とにかく音質が全然違う。非常にクリア。
例によって、カラオケに持っていって空間録音したんですが、シーンを音楽にして、リミッターとかALCをoffにしたら、マイク感度は高、録音レベル5(1〜30)にしても、たまに音割れしてました。静かな曲だと普通に歌っても問題ないんですが、なんかお腹に力入れて叫ぶようなのはちょっと調整が必要ですね。低い音はそうでもないけれど、高音が割れてしまう気がします。マイク感度すごくいいので、低にしておけば音割れしないかも。今度試してみます。

クリアなレコーダーとクリアなヘッドフォンで、臨場感ばっちりのカラオケ再現。・・・うわ、こんなん人に聞かせてたんか!と、目からウロコですよ。今からそういう用途で買う人は心の準備を・・・
愛の反対は無関心
そう言ってた人がいるんですよ。
愛の反対は憎しみ、と思うかもしれないけど、愛するがゆえに憎む、とかそういうことはありえますよね。文学作品なんてそんな感情の屈折がなかったら成り立たないとこありますし。けど、無関心。となったら、物語にしようがないですね。相手に関心がない、浮気しようが病気になろうが死のうが、「あっそう」だったら、まさに不毛ですよ。そこから何のストーリーも生まれない。それが、「愛なき世界」らしいです。

親子でも兄弟でも夫婦でも、身近な誰か、関心をよせている誰かに、人は、意識的、無意識的に、自分自身の願いをぶつけたり、自分自身の理想の姿をおしつけたりします。まあ、美しく言えば、「期待をかける」わけですが、これがなかなかこじれる元になったりもしますね。とくに無意識でやってると、どうしようもない。
たとえば、私なんかだと、自分がこういうかたちで社会参加したい、という理想像がある。それを最も身近な存在である伴侶におしつける。結果、相手は当然、自分の理想通りには動いてくれないので、「もっとこういうふうになれないの?こうできないの?」と、不満だけが鬱積する。それは向こうも同じことをしてる、と思ってます。私に何か「こうあるべき姿、こうあってほしい姿」というものを期待し、言っても言ってもその通りにならないと、不満だけが鬱積する。

あなたのためだから。

そんなCMがありましたが、あなたのためじゃないんですよね、ほんとは自分のためなんですよ。自分ができないことを相手に期待して、身代わりに仕立て上げ、「それがあなたのため」「あなたの幸せだから」と呪縛をかける。
うちの両親にも、当然そういうのはありました。
でも、いつ気づいたのか、母なんかはもう超越してしまいましたね。そして、「あんたがどういう道を行ってもいい。何をしていてもいい。自分の好きなように生きて、元気でいてくれたら、それでいいよ」と言うようになりました。「もう、あんたもいい大人だから、自分で考えたことをしたらいい」と。
愛がないわけじゃないんです。無関心ではない。関心は大いにあるけれども、身代わりとして何かを期待することをやめたんですよ。そのかわり、失敗して困るようなことがあれば、できる範囲で手をさしのべてやろう、と。上下の立場のある親子というより、もう少し自立した大人同士、という関係になったんです。親が老いて、「自分たちもいつかは子供たちや他人様の世話にならないといけなくなる」と実感するようになって、じゃあ今のうちにもっと「自分自身のやりたいことをやろう、自分自身の幸せを追求して生きよう」と思うようになったんじゃないでしょうか。子供や孫に期待をかけてあれこれ願うよりも、自分の在り方を充実させる方向に優先順位をおくようになった。やっぱり母にはかなわないなぁと思います。

私はといえば、まだ自分じゃない人に自分の成し遂げられないことを、代わりにやってもらいたいと願っている・・・いや、きれいな言い方はやめましょう。
「自分の描く何らかの理想像を、『これがあなたの幸福』だと、無理やりに押し付けている」
そういうことだと思います。
相手は人形じゃないのだし、自分の理想なんて自分で叶えるのがスジってものなんだから、もうそういう押し付けはやめたい。今まで無意識にやってきて、何事かあれば一喜一憂して、でもそれは自分の人生じゃない。
無関心になるのではなく、相手は自分ではない意志をもった人間なのだとして、自分の理想の在り方とズレている部分をも認める。そして、自分の人生、自分自身で自分の幸福の在り方を追求する。

あなたの幸福は、わたしの幸福。

それは文学の中でしか起こりえない奇麗事。もしくは、長続きしない蜃気楼のようなものです。あなたがあなたであり、わたしがわたしである限り。つまり、人ひとりひとりの感性や考え方が違っている限り。
もちろん、共に同じことを喜び、共に同じ道を歩んでいると実感できる幸福な瞬間というものはありえるし、その瞬間があればこそ人生も礼賛に値するというものですが、基本的には、人はひとりひとり別べつの生を歩んでいます。あなたの幸福はこれなのよ、と言う資格など、誰にもないのです。

関心あればこそ、口出ししてしまう、期待をかけてしまう、未完成な人間だからそれも致し方なし。ある程度は許せる範囲。だけど、ほどほどに。その口出しが叶わぬと悟ったとき、無関心に寝返ってしまう危険性が、なきにしもあらず、だから。
ホームシック
一泊で三朝温泉に行ってきました。
今上天皇陛下をはじめ皇族方もご宿泊になられたという老舗旅館「依山楼 岩崎」というところに泊まったのですが、すごくよかったです。夜の豪勢すぎる食事は、私には食べきれないし無理なのでキャンセル、朝食だけつけてもらったんで、食べ物については語れませんが、肝心の温泉、湯殿ですね、これはもうすごく趣がありました。あまり温泉宿に泊まったこと自体ないわけですが、あんな本格的な露天風呂ははじめてで、味わい深いものがありましたね。もちろん露天ですから、心もとないというか、思わず周りをキョロキョロしたい気持ちにはかられましたが、なんか、まだ二十代と思われる若い女の子のグループが泊まっていて、その子たちとお風呂で一緒になることが多かったんですね、それで小心な私はけっこう救われた面があります。ひとりでゆったりしーんと空を見上げて、というのもいいですが、初本格露天なのでやはり誰かと一緒のほうが・・・その若い女の子たちは、たぶん関西方面から来たらしく、温泉タオルを頭にのっけて、「キャー、あたし、いっぺんこれやってみたかってん!」とかいいながら、どこを隠すでもなく恥じらいを見せる素振りもなく、あっけらかんとスッポンポンで入ってきて、私は「うわ、こんなん盗撮マニアにとってどうなんやろ」とか「んー、やっぱ温泉ってこうあるべきやなぁ、湯けむり旅情殺人事件って、こういう露天風呂で死体が発見されて起こるんやろうな」とか、ろくでもないことを考えていました。

昔、家族で温泉旅行すると、父が何度も温泉に入りに行くので、「なんでそんなに風呂ばかり入るんやろ?」と思ってましたが、まー、温泉ってのは身体を洗うというよりお湯につかること自体が目的なんですねー。だから、面倒だなぁと思いつつも、旅館に着いて食事前に一度、寝る前にもう一度、翌朝、朝食後に一度、合計三度入ってきました。そのうちしっかり身体や髪を洗うのは一度で、あとはさっとつかるだけです。でも、男性と違って女性はお化粧や髪に気を使いながら、お湯につからねばならないので、ほんと、けっこう面倒なんですよ。もう関係ないけど、恋人と初めて旅行するなら温泉以外がお勧めですね。余計な御世話ですが。

さて、話かわりますが、引越しして二ヶ月弱、やっぱ大阪に住んでて恵まれてたと思うことはありますよ。東京のほうがそりゃ都会度でいえば上だけど、それでも、東京でなきゃ手に入らないとか、そういうものはごく限られてます。大きな展覧会やら公演だって、東京のあと大阪や京都でもやるし、そういうのに慣れていたら、いざ地方暮らしになると不便だなーと思いますね。なんかもう「これがない」というのは、小さなものの積み重ねです。
たとえば、ベーカリーのvie de Franceがない。好きなんですよ、あそこのパン。べつにそこに限らず、ベーカリーというもの自体が少ないわけですが。朝、焼きたてのパンとか食べたいじゃないですか。でも、ない。申し訳程度に、あるにはあるけど、「気に入らない」。チョイスがないんです。あそこのアレが食べたい、と思わせるような決め手に欠けてる。そういえば、スタバもない。べつにスタバ、特に好きでもないんですけど、ないとなったら気になる。大阪にいたらどこにでもあるじゃないですか。
・・・そんなふうに、ないものを数え上げていくと、失った選択肢の大きさに気づくんです。ベーカリーやスタバなんか、まだなくてもなんとかなりますが、ちょっと何か習いたいとか、ボランティアしたい、そういう行動を起こしたいと思っても、どこに行ったらいいやら。何か習いたくてもそういう教室がない、そこで可能性が閉ざされてしまう、そういうことが小さな地方都市では普通なんです。どうしても何かやりたければ、家をでる、その土地での暮らしを諦める、あるいは自分が創設者になってしまうしかないんです。それって大きな決断でしょ?誰にでもできるというものじゃない。もし、やりたいことができる場所や機会があれば、そういう選択肢があれば、未来はかわっていた(いく)かもしれないのにね。
もちろん、私は私の人生を充実させるために、できるだけ努力しようと思いますけど、ハンデつけられた感じは否めません。

うちの母は、いま、絵手紙に凝っていて、教室に通っています。あの人も習い事好きなほうですから、練習がてら何か書いては葉書をよこしてくれます。私も何か書いてポストインしようかと思うんですが、なかなか何を描けばいいやら・・・それでも、大阪から来る母の葉書を見ると、実家の家族のことを思い、弟夫婦、甥っ子たちのことを思い、自分の来し方行く末を考えます。引っ越したはいいが、この地が終の棲家になるかどうかはわかりませんし、どっちかというと、終の棲家にはしたくないです。
でも、私にまだ何かできるでしょうか。
駄目な自分を思い知らされ、少し辛い気持ちで、この歌を口ずさみます。
「帰りたくなったよ」。

私にはこの歌の詞みたいに、自分の夢を伝えたいとか、大丈夫だよって繰り返して言うことなどできない現実が、また辛いわけですが・・・
いつかこんな不肖の娘にも、言えるようになりたい。
「だいじょうぶだよ」って。ただその一言を。

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