<< 高野山の宿坊に泊まる | main | ペットショップの猫、その後 >>
続・高野山の宿坊に泊まる
前の続きです。

さて、あの高野山界隈でたぶん一軒しかないであろうコンビニで、夜、私たちが見たものは!
宿坊で食事を出してくれたお坊さんが作務衣のまま、アイスクリームを選んでいた姿でした。いや、あのアイスを入れてる冷凍箱がちょうど入り口付近にあって、嫌でも目に入ったんですよ。
えっ、これ、なんとなく気まずいッ!
だって、ついさっき、
「ふだんはどんなものを食べているんですか」
「粗食ですよ、本当に質素な食事です」
なんてやりとりがあったばかり。
いやー、別にお坊さんが自分でアイス買って食べててもいいと思うんですけど、「粗食」って強調されていただけに、外で買い食いできるとか想定してなくて。せまいコンビニですから、まあ、お互いにちょっと会釈して、それだけなんですが、あんなとこで会わなきゃよかったと思いましたね。

高野山って、パワースポットだの聖地だの言われてますが、じゅうぶん俗っぽいところです。今回いろいろ見聞きして、嫌と言うほど思い知る結果になりました。
翌朝、六時半から勤行が始まります。まだ寒いお堂には、正座できない(したくない)人のために、椅子も置いてあります。人が十数人ほどしかいなかったので、私たちはその椅子に座ってお経を聞いてました。きちんと袈裟を着たお坊さん数人で抑揚をつけて歌うみたいに唱えるんですね。私たちは特に信仰心もないし、ものめずらしいなぁってだけですが、ちゃんと数珠をもって一緒に唱えている人もいました。それが終わったら、堂内の見学と住職さんのお話があったんですが、まあ、堂内の文化財などの見学はいいとして、住職さんのお話。これがお金にまつわる話ばっかなんです。重要文化財などもっているお寺は、それらを修復したりちゃんと保存しなければならない、もちろん国からもお金は出るけれども、お寺からも出さないといけない、それがいくらかかるとか、そういう話です。聞いていると、一部を修復するだけで、ほんとうにものすごい億単位のお金が動く。歴史の古いお寺は大変なんですよ、ということ。高野山のどこにいっても寄付金を募った箱が置いてあるのがこれでわかりました。行ってみてポスターで知ったんですが、来年は1200年祭だそうで、去年は伊勢参りが流行ったけれど、来年話題になるのはきっと高野山ですよ。それに向けての準備が進んでいるみたいです。
そういうお金の話を延々されて、部屋に戻ると朝食が用意されていました。これまた質素なお膳です。ご飯にお味噌汁、がんもどきの煮たものと、お漬物、市販の海苔・・・って感じかな。旅館でこんなの出されるのは宿泊料からしてありえないですが、宿坊だからってことで。

チェックアウトしてからは、奥の院まで散策しましたが、私の記憶より、どこもかしこもきれいになっています。木立のなかに苔むしたお墓が並んでいるのはイメージ通りですが、舗装された道とかね、つきあたりのいろんな施設、公衆トイレ、みんな新しくてきれい。汚いほうがいいとは思いませんが、ここまでやっちゃうと、ふつうに観光地って感じで、かえってありがたみがない、みたいな・・・私はそんな気がしました。奈良の法隆寺なんかもそうなんですね、ずっと昔はまだ世界遺産になってなかった。そのころは、あんまり人気のない、さびれたお寺、それが風情あったんですが、今は拝観料も高くなって、そのかわりいろんなところに手をかけて新しくして、昔感じていた侘びさびの世界というか、幽玄な古代ロマンというものがなくなってしまった。奈良博物館だって、昔はもっと妖しい感じがしてた。なんでもかんでも新しく、きれいにすればいいってもんじゃないんだなぁと思うんです。もう少し「あまり手のかかってない自然さ」がほしい。

しかし、いろいろとお金にまつわる話を聞いたせいか、お坊さんって何のためにいるのかなぁって。
いやぁ、弘法大師が高野山で即身成仏したのが事実だったとしても、後世、真言宗がこんなふうに伝わるとか、自分自身がこんな観光の目玉に使われるとか、想像してなかったでしょう。キリスト教と教会だっていろいろあるだろうし、どんな宗教でも同じなんでしょうけど、たとえば日本の仏式のお墓とかさ、仏壇。あれ、将来どうするのって思いませんか。少子化で、そんなの後生大事に守っていく人がいなくなるでしょう。人間の活動範囲が広がったのに、対応できてないんですよね。子孫が外国で暮らすことになったり、子供を生まず独身のまま老後を迎えることになったり、先祖供養って言われても、物理的にできないじゃない。葬式やら法事は、死んだ人のためよりも、むしろ故人を偲んで生きている者たちのためにあるものだと思うんですが、そのやり方がね、続いていかない。私にしても子供いないし。甥っ子がいるにしても、自分より先に死ぬ可能性もあれば、遠く離れた土地で彼ら自身の家庭をもつことだってあるだろうし、いついつまでも、物理的に近くにいられるなんてぜんぜん限らないんですよね。私なんか、もう自分の死後、少ない親戚縁者に負担のかかる従来通りの葬式や供養なんて、してもらわなくてもかまわないと思っていますが、そういう人が多くなってきたら、人が亡くなると戒名や法要でお金をもらっているお寺はどうなるんでしょう。淘汰されていきますよね。歴史的に価値のある建造物や美術品は後世に遺すべきだと強く思いますから、それらの番人として、やはりお坊さんは必要、私のなかではそんな印象です。
だって、みんな信心してないじゃない。
なんとなくそうするもんだと思って、葬儀屋の言うとおりにお坊さん呼んでお葬式するけど、それまでお経のひとつも唱えられず、信仰心なんかまったくなかった人が、死んだら突然戒名もらって仏教徒として供養されるとか、宗教的にはふざけた話ですよ。そういうのを疑問に思わず習慣として続けていたけれど、これからの世代はちょっとやってけないんじゃないかなぁと。なんか、高野山に行って、自分や自分の身内の墓やら葬式やらどうしたらいいのかなってリアルに考えちゃいました。
| Fragments | 09:43 | comments(0) | trackbacks(0)
コメント
コメントする









この記事のトラックバックURL
http://fragments.marineko.moo.jp/trackback/1053442
トラックバック
SEARCH THIS SITE.
CATEGORY
SELECTED ENTRIES
ARCHIVES
RECENT COMMENT
モバイル
qrcode
LINKS
PROFILE